GKC
酒粕プリンなぞ食しつつ某友と雑談。
とりとめのない…ファミレスでパンナコッタを注文した老夫婦についてなんて話をしていた友が、次の瞬間 眼を光らせて、「わたしはフランボウなのだよ」といいだしたものだから、呆気にとられた。
私の反応にまんざらでもなさそうな友。
ま、つづきは、
「なんでフランボウを知っているの…?」とうっとりする私をおぞましく思った友が、「いや、あんたいない間そこにあった本(『ブラウン神父の童心』)の最初のはなし読んだだけだから」と即座に逃げを打った、というものなのだが。
というわけで、ここのところ微妙にチェスタトンブーム。
米遊中の暇なときには、『木曜の男』をひっくりかえしてメモとってた。
「ブラウン神父」を読みだしたのは帰国後だっけな? チェスタトンは学生のときにはまってだいぶ(おもに評論を)読んだけれど、Father Brown物はメジャー=キャッチー? という先入観があって手を出しかねていたのです。
それがふと手にとってみたんだが、面白いじゃないかー。一日一篇、ちまちまと読んで、今は2冊目『知恵』。ここまでくると、神父がたのしそうに白身魚を食べてるだけでハッピー。(はっ、チェスタトンの思う壺だ)
チェスタトンの小説で自分が好きなのは、何といってもイメージを喚起される感じが。作品全体のシュルレアリスティックかつファンタスティックな持ち味ももちろんですが、作品中にくりかえしあらわれる神秘的な空模様とか、単純にそういったものが癖になりますね。
でも百輭みたいに、再三再四愛でるという風ではないんだなあ。別の作品へすすんで、そこでなじみのイメージに行き会う。空模様だけでなく、人物でも。そんな感じ。まあ多作な作家だからそれも可能なわけですが。
帽子の代わりにキャベツをかぶって出かけるようなマイペースな諧謔味も毎度ツボですよ云うまでもなく。
今回はイメージをたのしんで読んでいるので、歴史的文化的コンテクストは無視しまくり。(それでもときたま見られる偏狭なオリエンタリズムは鼻につく…。)そもそもチェスタトンはキリスト教作家だしー。
読む方はそれでよくても、訳はそういったものをすっとばしてほしくないよ。とくに『木曜』みたいな時事ネタ(アナーキズム)に依拠している作品の場合はー。訳注はやっぱり不可欠と思う*1。
「ブラウン神父」で今のところ個人的に気に入っているのは、
『童心』…「奇妙な足音」(基本的に聴覚人間なので。一番好きかも。)
「飛ぶ星」(チェスタトンのコンメーディア・デッラルテ的イメージ! 前から夢想していたのでこんな風に拝めるとは感激。フランボウ一世一代の犯罪芸術。)
の2篇かな。『知恵』所収の名作「通路の人影」のみごとなキャスト、「シーザーの頭」(ローマ帝国に抗う現代*2の娘!)及び「銅鑼の神」の心象風景的な舞台立ても忘れがたい。
そもそも推理小説として読んでませんので。すみませんね。
ひとつ我儘をいえば、中村訳の神父とフランボウの会話がなんか、いずい*3。もうちょっとこう、自然に響かないものか。その点、吉田訳『木曜』の台詞回しは妙にこころに残るものがある。
「少しあからさまにこのえびを楽しんでいすぎて、ご免ね Excuse me if I enjoy myself rather obviously!」
「君はピアノがひけるかね」「ひけるよ」「僕のタッチはなかなかいいってことになっているI'm supposed to have a good touch.」